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僕らの人生は間違いじゃない − 坂元裕二と廣木隆一の共鳴について

一昨日、突然の暇の寂しさを紛らわしに、買っておいた坂元裕二の『往復書簡 初恋と不倫』を読み、テアトル梅田で『彼女の人生は間違いじゃない』を観た。
両方を一日のうちに、というのがいけなかった。この二つ、坂元裕二廣木隆一の化学反応はすさまじい。

【ネタバレ注意】

『往復書簡 初恋と不倫』。「初恋と不倫」なんてタイトルを、かのトレンディドラマの金字塔『東京ラブストーリー』の脚本をしたためた坂元裕二が付けているわけだけど。『往復書簡』もまたラブストーリーだけど、ラブストーリーに留まらない。あれは僕たちがこの世界のどこにどう身を置くか、 その姿勢の物語です。そして、その姿勢はここ数年ずっと僕が考えてきたものです。


誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。

ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。悲しみはいつか川になって、川はどれも繋がっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。

この世界には理不尽な死があるの。どこかで誰かが理不尽に死ぬことはわたしたちの心の死でもあるの。


興味がない、実感がわかない、共感できない。遠い国の紛争や世界はもとより、自分の国の災害や貧困や差別に対しても、無関心な第三者でいようと努めたところで、僕たちは確かに痛ましい世界の一部である。この世界の痛みは底の底でちゃんと繋がっていて、それに対して無関係でいられるはずはない。


なぜ、わかろうとしないのだろう?
そこで傷ついているのは、すべて“わたしたち”だったかもしれないのに。


この台詞です。『往復書簡』のエッセンスは、この台詞にあります。

教科書的な台詞に確かな質感を持たせる、手紙やメールなど書簡の主たち。彼らには『東京ラブストーリー』『Mother』『私たちの教科書』『カルテット』等々、これまでの坂元裕二作品に登場した愛おしいキャラクターが憑依する。悲痛な物語の締めくくりに、坂元裕二はそのキャラクターたちに託して「それでもこの世界で生きてゆく」と思える喜びを語る。この物語の瑞々しい肉付きといったら。恋をすることとは言葉を交わすこと、あるとき突然に生じる交感に立ち会うこと。それこそ、生きる喜びでしょう。


『往復書簡 初恋と不倫』に対するアンチテーゼでありながら強く共鳴する物語として『彼女の人生は間違いじゃない』を位置付けることができるでしょう。主な舞台は福島県いわき市。2011年3月11日の東日本大震災、それに伴う津波原発事故の被害を受け続ける土地。そこに住まう人々の群像劇です。

正直、最初は『軽蔑』の廣木隆一高良健吾が再びということで、それ目当てで劇場へ足を運びました。廣木隆一は最近は『ストロボ・エッジ」とか『オオカミ少女と黒王子』とか『PとJK』とか、少女漫画原作の映画を多く手がけていました。それはそれで映画産業にとって重要だけどちょっと寂しいなあと思っていたところに、この作品。人生、油断大敵です。

主人公のミユキは、仮設住宅父親と二人暮らし。市役所に勤務しながら休日には東京へ通ってデリヘルで働く。父親は元農家だが、震災から立ち直れないままパチンコ漬けの日々。ミユキの同僚で、弟をかわいがる新田。多くの登場人物たちが、その土地で暮らしています。

正直に言って、僕はまだこの物語を消化できていません。消化できる日が来るのかもわかりません。なぜなら、この物語はいま日本で起こり続けていることだから。物語を消化するということは、その物語に結論を与えるということ。現在進行形の問題に結論を与えることなど、できるはずがないではないか。すべての映画は虚構です。しかし、映画が描く物語は確かに誰かの人生であるのです。

この物語は観客にいっさいの結論を与えません。観客の共感と同情を拒むどころか、その姿勢を明確に否定します。この映画が非難を浴びるとすれば、第一にその点でしょう。共感させろ、同情させろ、我々に結論を与えろ。裏を返せば、そんな意見を尽くはねのけてしまうほどに物語が硬くしなやかということです。まずはその物語に打ちのめされなければ。なぜだかわからずに涙を流さなければ。それが映画の楽しみでしょう。

この映画は廣木隆一による試みです。現在進行形の傷を物語るための試み。だから、この映画は不完全なのです。不完全な形で完成しているのです。語れないことを語ろうとする以上、物語からこぼれ落ちてしまうものがあります。主演の瀧内公美の眼に刮目せよ。目は口ほどに物を言う、言葉で語れないものは眼で語るのです。そして彼女の脇を支える役者ときたら。光石研高良健吾柄本時生、燻し銀とはまさに彼らのこと。あれほど心血の注がれた演技はなかなかお目にかかれませんよ。

僕らはこの物語に共感することができません。それでも、坂元裕二が自らの作品に託したとおり、考えなければならない。「そこで傷ついているのは私であったのかもしれない」と。それが想像力でしょう。そして想像力こそ、僕らの持つ最強の武器でしょう。フルッサーもそう言っている。ミユキに限らず、誰かの人生を正しいとか誤りとか判定することは、僕らの仕事ではありません。『カルテット』で別府くんがこう言っていたではないか。


人を査定しに来たの?どんな資格で?


僕らに誰かの人生の価値を測ることなどできません。測れないけれども、僕らは想像力を駆使して、ミユキの人生を全肯定はできなくても、絶対に否定してはいけません。だから、僕らはこの物語を観て「彼女の人生は間違いじゃない」と言わなければならないのです。

いつぞやの閣僚の発言や、何かにつけて持ち上がるみっともない自己責任論など、鼻で笑い飛ばせばいい。比べるべくもなく、二つの物語とは精神の強度が違います。おすすめです。ただし、一日で両方を摂取してはいけません。帰りの電車で涙があふれてしまうから。

はじめに

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

 

できるかぎり格好つけて勿体ぶった、この台詞で始まる小説からどうにも離れることができずにいる。どんな物語に触れても、どんな現実に直面しても。そして、自分だけの物語を書こうと思っても、いざ書こうとすると書きたいものが何なのかわからなくなってしまう。「僕」にとってそうであったように、この言葉は私を励ます。完璧な文章は存在しないのだから、無理に書こうとする必要などないのだ。それと同時に、この言葉はこうも言っている。完璧な文章は存在しないのだから、完璧でなくても書いていいのだ、と。これが私にとっての呪いだ。

堅苦しく書いたが、結局ブログを始めようと思ったきっかけは、ドラマ『カルテット』(2017年1〜3月、TBS系列)に見事にハマり、その『カルテット』について書いたとても興味深いブログを読んだからだ。ようするに、良いブログを読んで自分もブログを書きたくなっただけ。大学院生なんてものをやっていると、日々感じたことを他者と話す機会が少ない。これがなかなか寂しい。おいしかったごはんの話をする相手を見つけるにも一苦労だ。だから、代わりにここに書いてみる。

好きなものも、嫌いなものも、今だけのものだ。書けるものは、書けるうちに。